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京都を拠点に活動する、大所帯のダンス・コミュニティ。
ブラス楽器を奏でながら、ダンスな旅をしたりします。
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ハムの人と拓馬君

 今日の稽古場。

みなさん衣装をきて稽古をしています。
※みなさんという人はいません。

チナミニ、※カタカナにすると食べ物みたい、チナミニ。
私はいつもなにやかにやで衣装がしっくりこず、

これだと思って着ても確信がずれてる。

何も着ないが一番にしようかなぁ……布が身体から余ってます。

余るのやったら精一杯余らせようかなぁ………ぶつぶつぶつぶつ


にょーんにょーん


余らないようにしっくりひたひたオツケものでいきます。

 

そういやこないだ、キューティーダンサーの吉澤拓馬君が夢に出てきた。

何かを一生懸命に話していた。

飯田さんやQUICKの夢にもでてきたそう。

念力リョクですね。




秋山はるか


 

posted by e-danceとは? | 12:27 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |
春気

 本番まで二週間をきっての通し稽古.
開場してお客さんが入ってくるところから、想定しつつリハーサル.

通し稽古を終えて、まだまだ不安と緊張でいっぱい.

でも、やっと形がイメージできてきてうれしい.

今回、どんな公演になるのか.本番までの詰め、それまでの変化が楽しみです.

みんなの楽器の上達ぶりは10代の勢い.技術的にまだ拙いところはあるけど、

その心待ちが素晴らしい.
夢中になれるっていいね.

いよいよ春です.
いっちょ暴れますか.
edance、春気発動中♪?

吉澤拓馬

posted by e-danceとは? | 12:20 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |
春の祭典を経過する
 14歳のとき、知人の作曲家から『春の祭典』のオーケストラ総譜(スコア)を借り、『春の祭典』の廉価版LPレコードを買った。それから毎晩、目で譜面を追いながら、そのレコードを繰り返し夢中になって聴いた。同じ頃、モダン・バレエに熱中し始め、『春の祭典』の、まだ見ぬ振付を夢想するようになった。舞台衣装を想い描き、スケッチ・ブックに振付案をメモしていろんなポーズや動きを描きこんだ。初めてこの曲の生演奏を聞きにコンサートホールへ行った時は、感激して楽屋へ侵入し、指揮者にサインを頂いた。

 それから10年が過ぎた。ダンサーとして活動を始めていた。もう一人の父のような師匠の勧めもあり、ダンスの稽古をするばかりではなく、昼間は工事現場で働いた。ビル清掃、ビル解体、荷揚げ屋、ドヤ街に泊まって日雇い仕事、いろんな現場で労働をした。なぜか場ごとにボスから目をかけてもらい可愛がってもらった。仕事の後、飲み食いしながら、引き締まった筋肉の、日焼けした、気の荒い、深い目をした人達から話を聞く。共に飲み明かし、共に泊まり歩いた人達のなかには、日本国籍をもちながら日本語を正確に話せない人たちもいた。華やかな公演やアフター・パーティーとの懸隔がシュールな日々だった。

 小さな部屋へ帰ってくると、ノートを取りながら、老子やプラトン、スピノザを読み返す。いつも何冊か本を持ち歩いていた。一遍上人、キルケゴール、ドストエフスキィ、ハムスン、ムジル、エリアーデ……。労働とダンスでどんなに体が疲れていても眠るのが惜しかった。

 この頃のマイ・テーマ音楽はやはり『春の祭典』。ほかにも、バッハのヨハネ・パッション、マーラーの第六、「ギル・エヴァンス・メドレー」「プリンス・メドレー」など、いろんな音楽で振付を夢想したけれど、工事現場でいちばん燃えるのは、やはりこの曲。『春の祭典』を脳内に鳴り響かせ、ダンスを作業に織り込みながら働いていた。

 空色の作業着。石膏ボード。ドライバー・ドリル。目のまえに、解体中のビルがある。落ちたら死ぬ高さで窓ガラスを拭いている。ごく間近にオフィス内で働く事務員さんたちの表情が見える。高速道路のふもと。電力会社の内部。通い続けた滝壺。方丈での摂心。厩舎。飼葉桶。穏やかな目をした馬たち。ユンボ、クレーン。金属を溶接する火花。金属の悲鳴……。そうしてそこに、いろんなオマジナイの言葉が重なり、『春の祭典』が重なる。

 踊りながら修行みたいな暮らしをしているうち、時どき歩行中に倒れて意識を失くすようになった。あるとき、あ、今やばいな、放っておいたら手遅れだな、と感じて診療所へ出かけた。待合室で意識を失って、白いベッドで目覚めた。結核になっていた。「あなたまだやりたいコトとかあるでしょ。こんな体でダンスなんて、死んだら親御さん悲しむでしょう」と医師に言われた。きゃはははははははははは。一回限りの青春というのはそういうことだと思う。
 春はRite(儀礼・祭典)そのものである。でなければ盛んな夏が来ないのだ。

       ☆

 その後、何度も、何度も、『春の祭典』を舞台化しようとしては企画が流れ、別のものになった。とっくに春は過ぎて夏になっていた。『春ノ祭典』という曲を、お囃子のようにも、雅楽のようにも聴けるようになっていた。この音楽が喚起できる限りのドラマを、脳内でイメージし尽したような気もする。すでに至高のシンクロ・バレーが喚起されることなどない。アートめかしたようなイメージも特別な思い入れもない。基本的にカラッポなのだ。この音楽に対してすでに、グーでもチョキでもなく、パーなのだ。環境音として聴ける。

 ある時、「ああ、自分は今更この『春の祭典』とかいう音楽にダンスっぽい振付とかして、ものものしくカッコつけたり陶酔したり、かつて自分が高揚したように人を高揚させようとしたり、その手の文化活動をやりたいとは、もう、まったく思っていないんだな」と気づいた。好きとかきらいなどといった感情とも関係ない。この曲が何と重なっても、何と結びあわさっても納得できる。こだわることもできるし、忘れることもできる。

 それでもやはり『春の祭典』という音楽には潜在可能性があるのだった。
「種子」として活かすことができる。

        ☆

 人と接すると、その人の未来を感じる。その人が、将来未来に、どんな方向で、何をどんなふうにし起こしていくか、周囲とどう影響し合って、周囲に何を波及させ、どんな変化を起こしていくのか。いつからか、そうしたことがとても気にかかる。未来の花や実を想いうかべながら、その人のなかにある種や、芽を見てしまう。今ありのままの状態を感じて受け容れる、たんにそれだけでは、どうも済まないのだ。

 ここに小さな黒い粒がある。今ありのままに見れば、これは妙な形をした黒い粒にすぎない。けれど同時に自分の心は、それが朝顔の種子だということも知っていて、その種子の裡に、夏の早朝に広がる青紫の薄くやわらかい花弁を見ている。その種子の漢方における薬効・用法を体験的にも知っている。自分はそれを「半月形に膨らんだ小さな黒い粒」として見るだけでなく、未来の姿、未来の現象へ向かう、生成過程(プロセス)のなかの一時的な形、すなわち「種」として見ている。そのようにして現実を見る。
 人間は、現在のなかに潜在している未来を、イマジネーションの力で変えられる。現実を生み出し、現実を生みだす能力をもっている。
冷たい宝石の類より、やはり不恰好であっても自然の命を宿した種子に惹かれる。

  『春の祭典』という音楽のうちにも、出演者一人ひとりのうちにも、そのような種子を感じてしまう。いったん出会ってしまったら種子を見ないわけにはいかない。清明な状態になっているときは、その種子が、ある環境の中でどう育って展開していくのか、はっきりと感じ取れる。未来の姿が見えてくる。現に見えている形だけでなく、今はまだ見えない形が、将来きっと見ることのできる花の形、実の形が、ありありと見えてくる。創作のさなかにいる人間、不断の生成過程を意識して生きている人たちは、多分みんな、ものごとを、そうやって見ているのだと思う。

 小説や詩は、ひとりっきりで力を尽くして百回ほど書き直したら、まあ完成したことになる。けれど、現実の舞台にも、人生にも、人間関係にも、完成などない。生きている生身の人間は、いつもどこかへ向かう途上にある。もはや、何かを完成させたような気分になって澄ましていられる時代ではないのだ。原動力をたしかめながら、思いもよらなかったようなコトが次々と生成していく過程を、喜ばしく生きていくしかない。

 出来上がっていることなどない。過去でさえそうだ。いちおう「こうだったことにしておく」だけで、過去の現実と測りあえるだけの言葉などない。出来あがったように見えるものは、観念やイメージで出来あっがたことにしただけで、そんな見せかけもいつかは崩れる。

「こうでなきゃdame」なんてことがあるのか。「絶対にこうじゃなきゃdame」などと頑なになって、現に生きている命を損なうような態度こそまさにdameの典型ではないか。
ただ、ものごとを、もっと良くしよう、少しでもなんとかもっと良くしよう、もっと自由に、もっと充実して暮らせるようにしようとして活動している。いきいきしみじみ元気になれるやり方を身につけていく。そういう今があるだけ。

 ダンスもそう。人間が、体の自然とともに、お互い喜ばしく生きていく途上では、お互いにダンスしたり歌ったりするのがいい。やっていて現にいきいきしみじみしてきて、全身生き心地良くなってくる。体にいい歌い方して、体にいいダンスの仕方していると、個体も社会も芯から元気になる。

 ところが、恥ずかしい、機会がない、なにをいまさら、やりかたが不明、お習い事、お勉強、便乗、見栄、カッコつけ、傍観コメント、みたいなことになるともう、本来の効目が消え失せて、縮小コピーが次の縮小コピーを生むような、後追いばかりの不自由な連鎖が始まってしまう。やってる当人が、何か既成のイメージをなぞって、義務感で芸術情報を処理したり、自意識過剰で緊張してもったいぶった顔なんかしてたらもう末期です。

 お互いに不自由なぐるぐる廻りから離脱して、効力のなくなったコトを更新したい。そういう憧れ、欲求がある。末広がりなヴィジョンがある。シンプルでクリアーなヴィジョンがある。そのヴィジョンに近づきたいのであって、思想的な帰結や義務感で創作活動しているわけじゃない。現にやっていて面白いのだ。喜ばしいのだ。

 お互い元気に活かしあいたい。日々の暮らしを生命のエネルギーで満たしたい。たちまち形骸化して効目が薄れてゆく、でも本来は素晴らしかったこと、ダンス、音楽、療術、根源語、いろんな術を、ノンストップでよみがえらせ続けて、本来の素晴らしい効目をキープしたい。ダンスな世の中で楽しく元気に暮らしたい。そういう本能的欲求があるのです。だから稽古するんです。稽古ってのは、たえず原点に戻って原点を生きるっていうことでしょう。稽古は、そういう意識でやる。原点を呼び戻しながら、いつも改めて新鮮に生きたいのです。

      ☆

 この世界には、いろんな素晴らしいことがある。新しい意識、新しい手法、新しい形、新しいジャンル、みんな生まれたばかりの頃は生きいきと喜びにあふれて素晴らしかった。けれどやがてはかならず、古びて至福の原動力を失う。解釈され、説明され、模倣され、動機の薄れたパロディになり、ダイナミックな充実感を失い、自由なフィーリングを失い、カッコつけたようなカタ、構え、アクセサリー、生命を失った単なる構造になってしまう。新鮮な形もいつか生命を失い、またひとつ、狭く固く束縛された形骸がこの世に増える。至福体験は、いつしか脳内のイメージや観念になり、単なるこだわりとか惰性に化けてしまって、本来のキラキラした効目は失われていく。誰しも身に憶えがあると思う。

 だからこそ、絶えず、現に、実際に、生み出し続けるのだ。せっかく与えられたことすべて、フルに活かしたい。ノンストップで活かしあいたい。狭く固い苦しみを捨て、広く伸びやかな喜びを得たい。生命をいきいきしみじみ元気にしたい。
 人間の潜在可能性は途方もないはずだ。無限の可能性がある。可能性を限定して、狭い仕切りのなかでイイワケしている場合じゃないのだ。先があるのだ。また、次があるのだ。次に進む。先に進む。絶えず原点に戻って、新しい、効目のある、生きた形を、次々と生み出し続ける。そうしていつか、志なかばで引退して、次の人に、当事者の生きた伝統がバトンタッチされる。

 舞台の効用は、生命が元気になることだと信じている。お互いの生命にカツを入れるのが舞台活動。頭がどう認識し、心がどう感じるのでもいい。否定するのでも幻滅するのでもいい。頭の上に頭を重ねてごちゃごちゃと考えれば生命が元気になるのなら、さらにごちゃごちゃ考えるのがいい。

 生命が元気になりさえすればいい。この、すごくシンプルなことを、何度でも繰り返したしかめたい。単純すぎる幼稚だバカだと言われるのもいい、それでお互いの生命が元気になるのならそれでいい。むしろいつでもどこでも、「?!?!」と一瞬でパーになれるのがいい。こういうのは思想ではなくて腹の底からの実感なので、ははは、どうにもならないのだ。

 せっかくの人生をフルに楽しみたい人は、日々、歌って踊って、笑い合って、おまじないを唱え、愉気をしあって暮らしている。寓話のなかの蟻さんたちが、働きながら歌をうたわなくなったのは、ごく最近の話だ。昔の蟻さんは歌い踊りながら楽しく笑って働いた。

 「まさに以上のようなテーマを形にして表現する舞台が『春ノ祭典』である!」 などということは、当然ありえない。或る考えを表現して広く人びとに伝えたいのなら、街頭でビラを撒けばいい。或るテーマを言葉で探求・展開したいのなら、エッセイや小説を書けばいい。便利で手軽な世のなかになったと思う。視覚的イメージはマンガや映画で実現すればいいし、面白い視覚イメージを愉しみたければ、DVDやYOU TUBEなんかのお世話になって、スイッチを押したりクリックしたりすればいい。

舞台では、舞台でしかできないことをする。
 

IidA

posted by e-danceとは? | 01:47 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |
20日(金)
 いよいよ季節が巡ってきた!と心が浮き立つような暖かさ。
洗濯物の乾きも早いです。
ぼんやりぼやぼやと自転車で稽古場に向かっていると、
何度か車や人にぶつかりそうになりました…。

稽古の途中、ふと鏡を見ると、
あれ、こんなに手大きかったっけ、こんな身体してたっけ、と思うことがある。
見れていなかったり、考えてこなかったことがたくさんある。
自分のこと、周りにいてくれる人のこと。

もっともっと変容出来る。

今までの過ごしてきた季節の中で、今年の春が1番素敵だ!

画像は秋山はるかちゃん。真っくらくら。



岩澤侑生子

posted by e-danceとは? | 19:29 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |
もやっとボールなど投げ捨てておしまい

ボンジュー、ケる子です。

初演まであと2週間でございますか。
わっせい!わっせい!しゃかりき桃の木!

突然ですが、
今回実はわたくしの隠されたある特技が振り付けに
盛り込まれておるのです。ドキドキですな

あれするのは実はかれこれ10年ぶり。
本気であれするなんてあれの大会以来です。
あれに大会なんてあるの?とよくいわれますが
あれを競う大会は存在します。
あれの練習は「なかなかストイックですね」といわれたりしますが
ストイックと情熱は表裏一体ですからね。
わたしは、個人競技、団体競技に出場しました。
個人競技では合格ラインを越えたので認定バッチ持っています。
えっへん。

まさかこんな形であれするなんて

人生て、不思議なものですね。

あれに欠かせないあれは今回オリジナルで制作Yのお手製です。
ありがとう
Y

さてさて

あれ、分かりますでしょうか。

ヒントは あれって、、アレレ、もしかしてそうゆうダンス? 
てことですかね。

これでわかった方はあだ名を探偵にしてもいいと思いますよ。
じっちゃんの名にかけて時間のある方は是非考えて見てくださいな。
正解者には素敵なことが!
不正解者にも素敵なことが!
どんな人にも素敵なことは起こりえるでしょう。
正解は当日みなさまの目でお確かめくださいませ☆   カネヤケる子









posted by e-danceとは? | 19:08 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |
春ノ萌シニ心シテ

 春のきざしを感じる暖かい今日は遅い入りとなりました。
肝心要のラストパート。当たり前に細かくなる。
僕の相棒の吹きは、でだしがいまいち。しっかり相手をしてやらないと、
てきめんに表れる。
心して心して。
ほのかな春風ではなく春のテンペストを。

今村達紀

 

posted by e-danceとは? | 17:05 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |
社会酵素/共同身体感覚

日曜日、稽古は休みのはずなのに、

芸術センター制作室7には、やはりダンサーが集まっていた。

ダンスを通じて進化しよう、この世界を変えよう、元気にしよう、と改めて確認。

 

なぜ集団で共同創作なんてことをするのか。

ダンスは1人でも出来るではないか1人で身軽に。

舞台には1人のソロでも立てるしそのほうが自己表現しやすいし、

コンパクトにデュオでもトリオでもいいではないか売り易いし。

いやいや、そんなことではない。

 

未来社会のモデルを生み出して体験したいのだ。

このくらいはやる気になれば感動電源スイッチONですぐできるはず、

そういうかたちで社会モデルを生み出したいのだ。

人という種の一員として、

元気に愉快にサヴァイヴァルできる

人間集団のモデルを生み出したいのだ。

 

このわたしの衝動を表現をしたいんです叫んで暴れたいんですとか、

そういうことはオネショとか病気の未練症状と同じで、

出来れば子供のあいだに心ゆくまでやって済ませておく。

感情や衝動を相手に向かって表現するなんてことは別に舞台でなくても出来ます。

むしろまわりくどく舞台なんかでやらないで直接本人に表現したほうがスッキリする。

表現を役立てられるのなら、せっかくだし、出来るかぎり表現するだけなのだ。

ひとりで出来ることはひとりでやる。ふたりのことは、ふたりで。

「ひとりでも出来る」「ふたりでも出来る」という人たちが、

ひとりでもふたりでも出来ないことをしようとして集まっているのだ。

共有ヴィジョンがあって、確信をもって、覚悟を決めて進んでいく過程では、

苦しみも痛みも、ヨロコバシー充実感のなかに紛れてしまう。

こういうことは、ぼくときみとでなかよくよのなかに便乗とか、

自己中心に考えて生きているだけでは体感できないことだ。

 

社会のモデルを生みだすといっても、

過去のモデルをつくるのとは、また立場が違うのだ。

過去のミイラをこしらえるのでなく、新時代の社会の雛形をうみだすのだ。

新しい広場、集いの場、受け容れ量のたっぷりした器をつくるのと似ている。

本気で、まだ見たことのない、理解しきれない、大切な出来事を起こすのだ。

体感から出発して、潜在能力を引きだしあって、共同ダンスを生み出していく。

これから向かっていく先のヴィジョンさえ共有できていたらいい。

考えてテーマや手法にこだわったりしない。

プロット脚本なんてものにも依拠しない。

身体は日々、欲求に応じて変化しながら、元気に生きようとしている。

身体同士・生命同士の反応から生れてくる「共通の直感」みたいなものを信じる。

 

「ダンスするのが大好きです」というのは自然体としてまっとうだと思う。

せっかくそういうバランスのとれた体感をもっているのだから、

その傾向を活かして、社会という共同身体のなかで

「酵素」のような役割を果たすことができるんじゃないか。

いろんなものを素早く結びつけたり解きほぐしたりする酵素。

酵素の、基質選択性と反応選択性から学ぶことは多々ある。

触媒反応によって、生命活動を維持していく酵素。

率先してそういう役割を果たす人たち、

そういう役どころが向いている人たちによる集いの場があってほしい。


一緒に、未来の人間世界のモデルをうみだしていける同志。

まだ19人とはいわないけれど、せめて12人はいてほしいのだ。

同方向の志をもつ者たちが

何人か一緒に総合人間術を体得しあっていくと、

お互いの進化の速度もドガガガガーンと高まっていく。

強いヴィジョン、強い欲求をもって行動していると、

実現に必要な物質をうみだすべくDNAのいろんな箇所のスイッチがONになって、

DNAレベル、細胞レベルで、人間が、総合的に「進化」する。

人が変わったように目が輝いて、動きが活き活きしてきたりする。


体感覚をともなう遣り方で、高密に影響しあって励ましあっていたら、

それはもう1人で頑張って読書とかしてるのとは違って、

DNAレベルでお互いいっせいにスイッチONが続出して、

ひとつの場からいちどにウワーッとイケてる人が現れるという現象が起こる。

歓声と同じで、イケてる人というのはたいてい、ある場の中から湧きあがるのだ。

天才と言うより、「総合的にイケてる人」、

そういう人がどんどん生れ続けている世の中は元気だと思う。

Samanartistたちがこの世にウワーッと生れてきてくれないか。

そういう希いが強くある。これも遺伝子レベルの欲求かってくらいに。

ことに、両親を亡くしたあとでこの欲求が強くなった。

 

自分たちの未来をたしかめあうようにして、

集団でなきゃ出来ないかたちのダンス作品を創っている。

 

『春ノ祭典』、見逃したらもったいないような作品になりそう。

半年前の出発公演『元気の本』『狩プソ☆スピ歌』については

今でもあちこちから「感動を忘れられない」という声を聞く。

強い複雑反応を起こす方も、やはり1割くらいはおられると思う。

そうした方も含め、ぜひ、年齢を問わず、

桜の季節、劇場へお越しいただきたいです!


IidA
posted by e-danceとは? | 02:22 | 『春ノ祭典』創作日記 | comments(0) | - |