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京都を拠点に活動する、大所帯のダンス・コミュニティ。
ブラス楽器を奏でながら、ダンスな旅をしたりします。 最新ニュース
2011.09.14 Wednesday
twitterでも更新情報を確認できるようになりました。 follow me★★★★★★★edancenews e-dance BraDanOrchestra Short movie of BraDan★BraVo 映像 松浦莞二 Other movies ライブ動画 『BraDan Orchestra LIVE in Madrid』 movie ←click here ライブ動画 『BraDan Orchestra LIVE in Macherata』 movie ←click here 公演動画 『春の祭典-The Rites of Spring-』 movie ←click here 公演動画 『元気の本-The Origin of Vitality-』movie ←click here 公演動画 『狩プソ☆スピ歌-Hunting Songs-』 movie ←click here 告知動画 『BraDan☆BraVo』 movie ←click here 告知動画 『ダンマパダ-Dhammapada-』 movie ←click here * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * ☆飯田茂実の書籍などを扱うサイト「e本の本」は以下に引っ越しました。 「e本の本」 http://shaman-art.sblo.jp/ 【e-danceメンバーの予定】 ●QUICK,内田和成,竹 2012年2月2日(木)〜5日(日) MuDAダンス公演 「MuDA男祭り」 http://www.muda-japan.com/ 拓馬君の東北報告
2011.09.14 Wednesday
お久しぶりです。やすです。 坂東恭子ちゃんがフランス・スペインに行って、ナダフや阿南さんに会ってきたきたようです。 僕は最近東北へ行く機会があるのですが、e-danceメンバーの鍼灸師の吉澤拓馬くんも宮城県へ先日行ってきたようです。 今回は拓馬君のレポートを紹介させていただきます。 平成23年8月13日〜16日 活動報告 お盆休みの期間に、宮城へ行ってきた。 以下、報告。 8月13日(土) 東日本大震災が起こってから、五ケ月。 鍼灸師の山本浩士さんに声をかけてみた。 「お盆休みに、どうしても行きたい」そう言うと、「俺も行くわ」と応えてくれて、一時間もしない間にメンバーが揃い、日程が決まった。 明石、尼崎、西宮、大阪からメンバーが集まり、合計5人のチームで行くことになった。 「むこう行って、鍼したいか?」開口一番、出発地で山本さんにこう聞かれた。 「え、、、ま、、そりゃ、、できるなら、、させ、させてもらいたいです。」 鍼灸治療に行くものとの思いで来ていたので、どういう意味か分からなかった。 つまりは、こういうことだった。 被災地の方は、現実に不眠や痛みに苦しんでいる。 鍼灸治療をすることで、その日が眠れたり、痛みを和らげることはできるだろう。 しかし、「根本」の悩み、苦しみを取り除くことはできない。 「根本」とは、仕事がないこと、家がないこと、家族を失ったことなど現実的な問題だ。 「それでもお前は鍼(だけ)がしたいか?」そういう問いだった。 「きっついなぁ・・」そう思った。 「ええかっこしたい」「治療をしたい」そういった「欲」が、自分にはどこかあったはずだ。 そうか、助けになるのならば、鍼でなくてもいい。これは手段の一つでしかない。 その時に必要なのは、瓦礫の撤去かもしれない。 大切なことを、最初に教えてもらった。 それでも、させてもらいたい。 治療家のはしくれとして。 「指先1本でも楽になってもらうこと」この思いで。 車に5人乗り込み、21時過ぎに梅田を出発。 夜中の高速道路を順調に走り、約10時間。 翌7時過ぎには宮城県塩竃市に入った。 8月14日(月) 初めて目の当たりにする被災地。 市内の道はとてもきれいに清掃されている。 しかし、道路脇の住宅、店は津波の傷跡を残している。 未だ消えたままの、信号機。亀裂の走った路面。 長々と積まれた土嚢。車の窓を開けると、ヘドロの匂いが鼻をつく。 一見すると、落ち着いてみえる街中だが、そこかしこに傷跡がある。 震災から、ちょうど5ヶ月。 多くの人手によって、片付けられた道路や家屋。復興の跡と、手付かずの被害が混在している。 塩竃市から国道45号線を通って、東の沿岸部を進み、東松島市に入る。 へしゃげた道路標識、全壊した駅、亀裂が走り隆起した路面。このあたりから、津波の被害が増してくる。 石巻市に入った。 その被害は甚大だった。 道の脇にはおびただしい量の瓦礫、破壊された車がミニカーのように積まれている。魚の腐敗臭のような耐えがたい匂いがする。そんな中、警官の方がマスクをつけ、炎天下の中、交通整理をされていた。 車を降りて、石巻の海岸部へ歩く。荒涼とした風景。陸に船が転覆している。 海岸部の工場は壊滅的な被害だった。1階の壁が全壊した工場の中を覗くと、デッキブラシと洗剤が置いてあり、きれいに磨かれた跡があった。とても再開は困難、と思われる状態だった。 ここで何があったのか。 目の前の景色と、地震の直後にニュースで流れた津波の映像を重ねてみる。 重ねてみるのだけど、どうしても想像がつかなかった。 感傷や同情でもない、熱のない涙が流れ続けた。 この景色を見て、悲しいのか辛いのかなんなのか分からない、ただ圧倒された。 石巻市内にある食堂に立ち寄る。震災直後の凄絶な話を聞かせて頂く。 靴箱をイカダにして探しに行った人がいたこと、死体収容のため3日間働き続けた消防士の話。 ポテトチップが2枚、豆腐20分の1カットという食糧支給があったこと。 「がんばれって言ってもね。5ヶ月でみんな疲れきってるよ。道歩いてたら、夢遊病みたいに歩いてる人いるよ。」 ついさっきまで見ていた光景、いま目の前にあるご馳走、凄絶なお話を聞きながら、そのギャップに頭がついていかなかった。 矢本にある仮設住宅に向かう。公団住宅を利用されている5人家族のお宅に伺い、ご主人からいろいろとお話を聞く。 この家族が住んでいた地区は壊滅的な被害があった場所だった。 「近所の人、みんな死んじゃったからね。」 幸いにも、車と家族が無事だったのだが、避難所にいても後ろめたい思いでいっぱいだったという。 「モノはぜーんぶ流されちゃったけどね。思い出は残ってるんですよ。」 つとめて明るく振る舞いながら、たくさんの話をして下さった。 「がんばって下さいね」帰り際に、何度もそう励まされた。 「逆や・・・」少しでも役に立てたらなどという思いも空しく、ただやるせなかった。 松島町の品井沼にある避難所へ。 お盆のせいもあってか、中にいる人は少なかった。 卓球台がテーブル代わりになっていて、そこでお話を聞く。 この避難所は数日後に閉鎖される予定だという。 宮城県内の避難所は8月中には閉鎖され、仮設住宅に住宅に移る。 「天井高いでしょう。最高よ。」体育館のようなところが避難所になっている。 この日の気温は33℃近くあり、大型の扇風機が回っている。 薄いスポンジが敷いてあり、ここで寝起きするようになっている。 現地についてから、初めての治療。 メンバーが、鍼道具を持ってきて治療を始める。 それぞれに、話を聞きながら鍼を打つ。 ニュースで取材されている話を聞く時、現地の方言をあまり気にしなかった。 実際には、高齢の方は特に方言が強く、慣れてくるまで半分ほどしか聞き取れないこともあった。 相対して、言葉を発するのが怖かった。 どんな言葉をかけたらいいのか分からなかった。 「大変でしたね」そう発するのがやっとだった。ただ耳を傾けて、聞く。 たくさんの話を聞いた。 ここでも向こうの方に「がんばってねー!!」と、逆に励ましを頂く。 「何やっとんのや、自分は」凹んでも仕方がない、いま自分にできる限りのことをするしかない。 避難所を後にして、松島へ帰った。 この日、松島ではお祭りが行われていた。 露店が立ち並び、子供たちによる太鼓の演奏があった。 ホテルへ帰る。 ほぼ不眠で活動していたので、皆すぐ休みにかかる。 宿に帰るまで、メンバーの誰も「しんどい」と言わなかったのが、誇らしかった。 清潔な布団に横になって、眠る間際、 「一日でも避難所で寝てみって言うの。じゃないと分からんよぉ。」 役人に対する憤りを男性が話した時の言葉が蘇った。 8月15日(月) 午前、また品井沼の避難所へ向かう昨日より人は少ない。 無人だと思っていたところに、高齢の女性が1人居らした。 「どこか、おつらいところはないですか」そう聞くと、 「あー、うんうん、わたしね、元気、元気。もう85になんの。大丈夫。」 「ちょっとさせてもらえませんか」 「善意の押し売り」そんな言葉が頭に浮かびながらも、そうせずにいられなかった。 肩に手を当てると、硬く張っていた。 その方はとても遠慮深く、治療を始めてすぐに「あー、楽になった。ありがとね、ありがとね。」と「もういいよ」という合図を出してくる。 早くに亡くなったご主人のこと、避難所での生活、お話を聞きながら、しつこくも治療を続ける。 ぱっと横顔を見ると、涙が見えた。 いろんなことが、いろんな思いがあったのだろう。 治療が終わると、「ちょっと待っててね」と言って、パンを一つ持ってきて下さった。 「東北の人に物をもらったら、断ったらあかん」そう聞いた言葉を思い出し、ありがたく頂いた。 それから、いくつかの仮設住宅をまわった。 広大な敷地にプレハブの住宅が、団地のように並んでいる。 家族の場合、4畳半ほどの2部屋とキッチンの間取り。 洗濯機、冷蔵庫、テレビ、炊飯器、電気ポット、電子レンジの6つは用意されている。 エアコンは1台ついているが、プレハブの住宅は「夏は鉄板のよう、冬は寒い」と聞いた。 ある仮設住宅を訪れた時、子供たちが家の前で遊んでいた。 子供と遊ぼうとシャボン玉を持ってきていたので、「これはチャンス!」と駆け寄る。 幼稚園くらいの男の子3人は、とても元気いっぱいで、きゃあきゃあ叫びながらじゃれてくる。 元気な姿に、勇気づけられる。 子供たちは「こっち、こっちー」と虫カゴを見せながら、家のほうに引っ張っていく。 ちょうどその時、1台の車が横手の駐車場に停まった。 「何か、マズい・・」そんな予感がした。 考えるよりも先に、車の方へ走っていた。 「すみません、京都から来まして、鍼灸のボランティアでまわらせてもらってるんです。」 聞かれてもないが、言い訳をした。 「あんたら、ボランティアかなんか知らんが、ここ人の家と違うか。」 被災地へ来て、初めて向けられた怒りの目。 当然のことだった。ここは人の住宅であり、うろうろしていれば不審者でしかない。 無意識に「お客さん気分」になって浮かれていた、自分が恥ずかしかった。 ただただ謝って、そこを後にした。 続いて、別の仮設住宅へ向かう。夫婦二人で暮らされてるお宅へ。 部屋に入れてもらうと目の前に仏壇があり、赤ちゃんの遺影が飾られていた。 津波によって、抱いていたお子さんを失ったという。 「あまり言いたくないけど、話さないとこの子の存在がなくなっちゃうみたいだから」 と言って、話をして下さった。 いろんな方々にお話を聞かせてもらった。 「流されちゃってねぇ」何度も聞いたこの言葉が、強烈に耳から離れない。 多くの人の家が、大事な物が、大切な人が流された。 行き場のない悲しみ、怒り、思いがあった。 8月16日(火)松島から約13時間で梅田着。 帰ってきてから、このレポートを書けずに一週間が経ってしまった。 今回、自分たちにどれたけのことができたか、わからない。 しかし、「これから」の大きなきっかけになった。きれいごとでは結べない。 本当に「これから」。 懐かしい映像
2011.09.14 Wednesday
やすです。 |