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京都を拠点に活動する、大所帯のダンス・コミュニティ。
ブラス楽器を奏でながら、ダンスな旅をしたりします。 入りまして。3/30(月)
2009.03.31 Tuesday
in 劇場に 。 ついに。 あぁ、 はじめて眺める客席はとても不思議で、 人生なにが起こるかわからないな と おもった。 高い天井と、 まっくろでやわらかいゆかと、 壁にうつる影。 噂にきいていた がくや とか あんまく とか ある。 通用口 や モニター、 さしいれのお茶。 公演がはじまるのですね。 (Y) 明日から劇場入り
2009.03.30 Monday
孤独感にも、いろいろある。陸続きの同胞たちと国境を隔てて、分離意識のうちに生きる国々の人たちと、島のなかで国境を実感する必要なく生きている(僕らのような)島国の人たちとは、孤独感を抱くにしてもその中身や質が違うはず。 人によって、孤独感の質や、孤独とのつきあいかたは違うのだ。島国では境界を意識せずに暮らすことも出来る。いったん境界を意識したうえで、孤独を超えて、越境し続けることもできる。 これまで自分はどんなことに感動してきたのか。太陽や海、森、草原、生物の不思議、そうして人間。宇宙の神秘、自然の神秘みたいなことに感動してきた。無から有が生まれ、見えなかったことが見えることへ変化し、身体や意識が大きく活性化する様子。 例えば、人間が、あることに気づいたり、決心したり、ヴィジョンを叶えたり、すごい勢いで成長している姿。 人間という大自然としっかり関わっていくほどに感動が大きくなる。孤独感や哀しみに共感しあうというだけでなく、お互いそれを乗り越えあっているときは、喜びの感動も大きい。孤独や哀しみを超えていく姿。カラダの免疫力やホルモンバランスまで整ってしまうエネルギー。まさに脱皮している瞬間。潜在力が奇跡のように発動している瞬間。自分はそういうことに感動してきたのだ。 先日、秋山はるかが誕生日に 「今年は私、空飛びます」と抱負を語ってくれたけれど、 トンボは空を飛ぶ、鳩も雀も空を飛ぶ、 同じように空を飛ぶというのか、そのカラダで。 願わくはそれが暗喩であらんことを。 空を飛ぶというのは、 空中にふわっと浮かび上がるというだけではない、 意識せずに人為の国境を越えてしまう技術でもある。 昔は大海原に、漁師や商人、海賊や宣教師、 冒険者たちがエンジンなしでうかんでいた。 海原へ出るには、すごい覚悟が必要だったはず。 人類は出会い系の出会いなんかでは発散しようのない 膨大な量の冒険的メンタリティーを、 数十万年にわたって育んできてしまったし、 そう簡単に身ぐるみの冒険行為を捨てられない。 なんの冒険もせずに平和ボケしていると、 免疫力が弱まってきてホルモンバランスが崩れて憂鬱になる。 祭りに参加する人も、 観念の敷居、頭のなかの国境を、いったん越える。 そこには、大人っぽさとか子供っぽさを越えた、ある境地が現れる。 願わくは舞台芸術もまた、さまざまな人為の境目を いったんよろこばしく無化して心身が楽園化してしまう ちいさな冒険旅行、ちいさな祭典であらんことを。 というような希いもあってe-dance公演『春ノ祭典』に取り掛かりました。 どういうヴィジョンを抱いているかで、生き方も到達地も変わる。 人びとがどういう幻想を抱いているかによって、 社会の在り方や到達方向、社会の現実も変わってくる。 IidA 『春ノ祭典』は、4月2日(木)から始まります。
2009.03.29 Sunday
公演初日まであと、4日。 通し稽古を見に行くたびに、 作品はぐんぐんと変わり楽しみが増しています。 制作の方も、当日お客さんを迎える受付のあれやこれやを相談しました。 制作4人で話している時も、演出家と話している時も、 公演中「大切にしたいこと」がひとつのキーワードとなって出てきました。 ご来場くださった方々に、開演までの時間を心地よく過ごして頂けたらと思います。 写真は、会場のアトリエ劇研から鴨川に行く途中で見つけた先週の桜。 この桜の木は毎年早く咲くそうです。 手を伸ばして写真に撮る様子を見た通りがかりのご夫婦が、そう教えてくれました。 今週は寒かったし、公演のある週末には見頃かもしれません。 今回は、開演の1時間前から受付を始めております。 開場は開演の30分前です。 開演までのひととき、 くつろいで頂けるスペースを劇場内に設けております。 劇場周辺の地図を作りました。 少し早めに受付を済ませ、お花見散歩など、いかがでしょうか。 桜の時節、週末にはバスや電車も込み合いそうです。 受付で整理券をお渡しした後、開場までのあいだ、 少し時間に余裕をもって来られた方へ……。 坂本美夕 制作一同 日々前進
2009.03.27 Friday
公演も来週と近づいてきました。 毎日通し稽古をしていますが、みんなの舞台をより良くしたいという気持ちが様々なアイデアや意見となり、日々変化を遂げています。 そして個々でも、いろんな壁にぶつかりながらもしっかり自分自身と向き合い前進しています。 来週からの公演まで更に変化し前進していくので本番がどうなるか楽しみです。 渡邉 直美 3/26 開花。
2009.03.26 Thursday
一平 あと7日!
2009.03.26 Thursday
来週の4月2日には、初日です。 毎日新聞に公演情報を載せていただきました。 Blogを見られない人にも、もっとe-danceを知ってもらいたいなぁと あらためて思いました。 坂本美夕 ハムの人と拓馬君
2009.03.25 Wednesday
今日の稽古場。 みなさん衣装をきて稽古をしています。 チナミニ、※カタカナにすると食べ物みたい、チナミニ。 これだと思って着ても確信がずれてる。 何も着ないが一番にしようかなぁ……布が身体から余ってます。 余るのやったら精一杯余らせようかなぁ………ぶつぶつぶつぶつ
そういやこないだ、キューティーダンサーの吉澤拓馬君が夢に出てきた。 何かを一生懸命に話していた。 飯田さんやQUICKの夢にもでてきたそう。 念力リョクですね。
春気
2009.03.23 Monday
春の祭典を経過する
2009.03.23 Monday
14歳のとき、知人の作曲家から『春の祭典』のオーケストラ総譜(スコア)を借り、『春の祭典』の廉価版LPレコードを買った。それから毎晩、目で譜面を追いながら、そのレコードを繰り返し夢中になって聴いた。同じ頃、モダン・バレエに熱中し始め、『春の祭典』の、まだ見ぬ振付を夢想するようになった。舞台衣装を想い描き、スケッチ・ブックに振付案をメモしていろんなポーズや動きを描きこんだ。初めてこの曲の生演奏を聞きにコンサートホールへ行った時は、感激して楽屋へ侵入し、指揮者にサインを頂いた。 それから10年が過ぎた。ダンサーとして活動を始めていた。もう一人の父のような師匠の勧めもあり、ダンスの稽古をするばかりではなく、昼間は工事現場で働いた。ビル清掃、ビル解体、荷揚げ屋、ドヤ街に泊まって日雇い仕事、いろんな現場で労働をした。なぜか場ごとにボスから目をかけてもらい可愛がってもらった。仕事の後、飲み食いしながら、引き締まった筋肉の、日焼けした、気の荒い、深い目をした人達から話を聞く。共に飲み明かし、共に泊まり歩いた人達のなかには、日本国籍をもちながら日本語を正確に話せない人たちもいた。華やかな公演やアフター・パーティーとの懸隔がシュールな日々だった。 小さな部屋へ帰ってくると、ノートを取りながら、老子やプラトン、スピノザを読み返す。いつも何冊か本を持ち歩いていた。一遍上人、キルケゴール、ドストエフスキィ、ハムスン、ムジル、エリアーデ……。労働とダンスでどんなに体が疲れていても眠るのが惜しかった。 この頃のマイ・テーマ音楽はやはり『春の祭典』。ほかにも、バッハのヨハネ・パッション、マーラーの第六、「ギル・エヴァンス・メドレー」「プリンス・メドレー」など、いろんな音楽で振付を夢想したけれど、工事現場でいちばん燃えるのは、やはりこの曲。『春の祭典』を脳内に鳴り響かせ、ダンスを作業に織り込みながら働いていた。 空色の作業着。石膏ボード。ドライバー・ドリル。目のまえに、解体中のビルがある。落ちたら死ぬ高さで窓ガラスを拭いている。ごく間近にオフィス内で働く事務員さんたちの表情が見える。高速道路のふもと。電力会社の内部。通い続けた滝壺。方丈での摂心。厩舎。飼葉桶。穏やかな目をした馬たち。ユンボ、クレーン。金属を溶接する火花。金属の悲鳴……。そうしてそこに、いろんなオマジナイの言葉が重なり、『春の祭典』が重なる。 踊りながら修行みたいな暮らしをしているうち、時どき歩行中に倒れて意識を失くすようになった。あるとき、あ、今やばいな、放っておいたら手遅れだな、と感じて診療所へ出かけた。待合室で意識を失って、白いベッドで目覚めた。結核になっていた。「あなたまだやりたいコトとかあるでしょ。こんな体でダンスなんて、死んだら親御さん悲しむでしょう」と医師に言われた。きゃはははははははははは。一回限りの青春というのはそういうことだと思う。 春はRite(儀礼・祭典)そのものである。でなければ盛んな夏が来ないのだ。 ☆ その後、何度も、何度も、『春の祭典』を舞台化しようとしては企画が流れ、別のものになった。とっくに春は過ぎて夏になっていた。『春ノ祭典』という曲を、お囃子のようにも、雅楽のようにも聴けるようになっていた。この音楽が喚起できる限りのドラマを、脳内でイメージし尽したような気もする。すでに至高のシンクロ・バレーが喚起されることなどない。アートめかしたようなイメージも特別な思い入れもない。基本的にカラッポなのだ。この音楽に対してすでに、グーでもチョキでもなく、パーなのだ。環境音として聴ける。 ある時、「ああ、自分は今更この『春の祭典』とかいう音楽にダンスっぽい振付とかして、ものものしくカッコつけたり陶酔したり、かつて自分が高揚したように人を高揚させようとしたり、その手の文化活動をやりたいとは、もう、まったく思っていないんだな」と気づいた。好きとかきらいなどといった感情とも関係ない。この曲が何と重なっても、何と結びあわさっても納得できる。こだわることもできるし、忘れることもできる。 それでもやはり『春の祭典』という音楽には潜在可能性があるのだった。 「種子」として活かすことができる。 ☆ 人と接すると、その人の未来を感じる。その人が、将来未来に、どんな方向で、何をどんなふうにし起こしていくか、周囲とどう影響し合って、周囲に何を波及させ、どんな変化を起こしていくのか。いつからか、そうしたことがとても気にかかる。未来の花や実を想いうかべながら、その人のなかにある種や、芽を見てしまう。今ありのままの状態を感じて受け容れる、たんにそれだけでは、どうも済まないのだ。 ここに小さな黒い粒がある。今ありのままに見れば、これは妙な形をした黒い粒にすぎない。けれど同時に自分の心は、それが朝顔の種子だということも知っていて、その種子の裡に、夏の早朝に広がる青紫の薄くやわらかい花弁を見ている。その種子の漢方における薬効・用法を体験的にも知っている。自分はそれを「半月形に膨らんだ小さな黒い粒」として見るだけでなく、未来の姿、未来の現象へ向かう、生成過程(プロセス)のなかの一時的な形、すなわち「種」として見ている。そのようにして現実を見る。 人間は、現在のなかに潜在している未来を、イマジネーションの力で変えられる。現実を生み出し、現実を生みだす能力をもっている。 冷たい宝石の類より、やはり不恰好であっても自然の命を宿した種子に惹かれる。 『春の祭典』という音楽のうちにも、出演者一人ひとりのうちにも、そのような種子を感じてしまう。いったん出会ってしまったら種子を見ないわけにはいかない。清明な状態になっているときは、その種子が、ある環境の中でどう育って展開していくのか、はっきりと感じ取れる。未来の姿が見えてくる。現に見えている形だけでなく、今はまだ見えない形が、将来きっと見ることのできる花の形、実の形が、ありありと見えてくる。創作のさなかにいる人間、不断の生成過程を意識して生きている人たちは、多分みんな、ものごとを、そうやって見ているのだと思う。 小説や詩は、ひとりっきりで力を尽くして百回ほど書き直したら、まあ完成したことになる。けれど、現実の舞台にも、人生にも、人間関係にも、完成などない。生きている生身の人間は、いつもどこかへ向かう途上にある。もはや、何かを完成させたような気分になって澄ましていられる時代ではないのだ。原動力をたしかめながら、思いもよらなかったようなコトが次々と生成していく過程を、喜ばしく生きていくしかない。 出来上がっていることなどない。過去でさえそうだ。いちおう「こうだったことにしておく」だけで、過去の現実と測りあえるだけの言葉などない。出来あがったように見えるものは、観念やイメージで出来あっがたことにしただけで、そんな見せかけもいつかは崩れる。 「こうでなきゃdame」なんてことがあるのか。「絶対にこうじゃなきゃdame」などと頑なになって、現に生きている命を損なうような態度こそまさにdameの典型ではないか。 ただ、ものごとを、もっと良くしよう、少しでもなんとかもっと良くしよう、もっと自由に、もっと充実して暮らせるようにしようとして活動している。いきいきしみじみ元気になれるやり方を身につけていく。そういう今があるだけ。 ダンスもそう。人間が、体の自然とともに、お互い喜ばしく生きていく途上では、お互いにダンスしたり歌ったりするのがいい。やっていて現にいきいきしみじみしてきて、全身生き心地良くなってくる。体にいい歌い方して、体にいいダンスの仕方していると、個体も社会も芯から元気になる。 ところが、恥ずかしい、機会がない、なにをいまさら、やりかたが不明、お習い事、お勉強、便乗、見栄、カッコつけ、傍観コメント、みたいなことになるともう、本来の効目が消え失せて、縮小コピーが次の縮小コピーを生むような、後追いばかりの不自由な連鎖が始まってしまう。やってる当人が、何か既成のイメージをなぞって、義務感で芸術情報を処理したり、自意識過剰で緊張してもったいぶった顔なんかしてたらもう末期です。 お互いに不自由なぐるぐる廻りから離脱して、効力のなくなったコトを更新したい。そういう憧れ、欲求がある。末広がりなヴィジョンがある。シンプルでクリアーなヴィジョンがある。そのヴィジョンに近づきたいのであって、思想的な帰結や義務感で創作活動しているわけじゃない。現にやっていて面白いのだ。喜ばしいのだ。 お互い元気に活かしあいたい。日々の暮らしを生命のエネルギーで満たしたい。たちまち形骸化して効目が薄れてゆく、でも本来は素晴らしかったこと、ダンス、音楽、療術、根源語、いろんな術を、ノンストップでよみがえらせ続けて、本来の素晴らしい効目をキープしたい。ダンスな世の中で楽しく元気に暮らしたい。そういう本能的欲求があるのです。だから稽古するんです。稽古ってのは、たえず原点に戻って原点を生きるっていうことでしょう。稽古は、そういう意識でやる。原点を呼び戻しながら、いつも改めて新鮮に生きたいのです。 ☆ この世界には、いろんな素晴らしいことがある。新しい意識、新しい手法、新しい形、新しいジャンル、みんな生まれたばかりの頃は生きいきと喜びにあふれて素晴らしかった。けれどやがてはかならず、古びて至福の原動力を失う。解釈され、説明され、模倣され、動機の薄れたパロディになり、ダイナミックな充実感を失い、自由なフィーリングを失い、カッコつけたようなカタ、構え、アクセサリー、生命を失った単なる構造になってしまう。新鮮な形もいつか生命を失い、またひとつ、狭く固く束縛された形骸がこの世に増える。至福体験は、いつしか脳内のイメージや観念になり、単なるこだわりとか惰性に化けてしまって、本来のキラキラした効目は失われていく。誰しも身に憶えがあると思う。 だからこそ、絶えず、現に、実際に、生み出し続けるのだ。せっかく与えられたことすべて、フルに活かしたい。ノンストップで活かしあいたい。狭く固い苦しみを捨て、広く伸びやかな喜びを得たい。生命をいきいきしみじみ元気にしたい。 人間の潜在可能性は途方もないはずだ。無限の可能性がある。可能性を限定して、狭い仕切りのなかでイイワケしている場合じゃないのだ。先があるのだ。また、次があるのだ。次に進む。先に進む。絶えず原点に戻って、新しい、効目のある、生きた形を、次々と生み出し続ける。そうしていつか、志なかばで引退して、次の人に、当事者の生きた伝統がバトンタッチされる。 舞台の効用は、生命が元気になることだと信じている。お互いの生命にカツを入れるのが舞台活動。頭がどう認識し、心がどう感じるのでもいい。否定するのでも幻滅するのでもいい。頭の上に頭を重ねてごちゃごちゃと考えれば生命が元気になるのなら、さらにごちゃごちゃ考えるのがいい。 生命が元気になりさえすればいい。この、すごくシンプルなことを、何度でも繰り返したしかめたい。単純すぎる幼稚だバカだと言われるのもいい、それでお互いの生命が元気になるのならそれでいい。むしろいつでもどこでも、「?!?!」と一瞬でパーになれるのがいい。こういうのは思想ではなくて腹の底からの実感なので、ははは、どうにもならないのだ。 せっかくの人生をフルに楽しみたい人は、日々、歌って踊って、笑い合って、おまじないを唱え、愉気をしあって暮らしている。寓話のなかの蟻さんたちが、働きながら歌をうたわなくなったのは、ごく最近の話だ。昔の蟻さんは歌い踊りながら楽しく笑って働いた。 「まさに以上のようなテーマを形にして表現する舞台が『春ノ祭典』である!」 などということは、当然ありえない。或る考えを表現して広く人びとに伝えたいのなら、街頭でビラを撒けばいい。或るテーマを言葉で探求・展開したいのなら、エッセイや小説を書けばいい。便利で手軽な世のなかになったと思う。視覚的イメージはマンガや映画で実現すればいいし、面白い視覚イメージを愉しみたければ、DVDやYOU TUBEなんかのお世話になって、スイッチを押したりクリックしたりすればいい。 舞台では、舞台でしかできないことをする。 IidA 20日(金)
2009.03.21 Saturday
いよいよ季節が巡ってきた!と心が浮き立つような暖かさ。 洗濯物の乾きも早いです。 ぼんやりぼやぼやと自転車で稽古場に向かっていると、 何度か車や人にぶつかりそうになりました…。 稽古の途中、ふと鏡を見ると、 あれ、こんなに手大きかったっけ、こんな身体してたっけ、と思うことがある。 見れていなかったり、考えてこなかったことがたくさんある。 自分のこと、周りにいてくれる人のこと。 もっともっと変容出来る。 今までの過ごしてきた季節の中で、今年の春が1番素敵だ! 画像は秋山はるかちゃん。真っくらくら。 岩澤侑生子 |